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都電の走る街――町屋は、荒川区の中央北部に位置する下町らしさが残るエリアだ。地域の暮らしを支える活気ある商店街は、どこか懐かしさが感じられる庶民的なたたずまいで、町中を悠然と走る都電荒川線と相まって昭和の面影を留めている。表通りを入ると、細い道路や路地が入り組む住宅地で、八百屋、酒屋、飲食店などの店舗や銭湯が点在し、挨拶して行き交う人や道端で立ち話をする姿なども見かけ、気さくで温かみのある暮らしぶりがうかがえる。
町屋には京成線と東京メトロ千代田線も乗り入れている。京成腺で2つ目がJR線の日暮里駅で3つ目の京成上野駅まで7分で着く。千代田線は1駅目がJRの西日暮里駅で、大手町へは14分とフットワークがいい。都電荒川線も王子や大塚、池袋方面へは便利な脚だ。町屋駅に隣接して22階建てのセンター町屋と、28階建てのマークスタワーが肩を並べている。どちらも店舗や住宅の大型複合ビルで、センター町屋はファッションショップ、マークスタワーは赤札堂などの店舗があり、都会的なセンスを伝えている。町屋は新旧がほどよく調和した街といえるだろう。
縄文・弥生時代は東京湾が入り込み、日暮里台地が岬になっていた。台地からは道灌山遺跡や日暮里延命院貝塚が発見され、古代から人が暮らし集落があったこともわかっている。町屋とは“町の中にある家屋”を指す。地名の由来は、延歴10(791)年に坂上田村麻呂が蝦夷征討に向かうときに従ってきた野武士たちが、この地に土着し町屋を成したという説があるが定かではない。室町時代の板碑(石の卒塔婆)が残っているので、早くから開墾されていたことは確かだろう。地名として登場するのは江戸時代からで、当初は幕府領だったが、後に寛永寺の所領となり、近郊の農村地帯として知られていた。特産品の三河島菜(漬け菜)は有名で、武家屋敷に出入りする植木職人も多かったという。
明治時代になると大工場が相次いで建設され、工業地帯が形成されていった。大正2(1913)年には王子電気軌道(都電荒川線)が開通と、大正12(1923)年に起こった関東大震災が契機となり人口が急増し、商・工・住の混在する街へと変貌していった。昭和6(1931)年には京成電気軌道(京成腺)の町屋駅が開業。そして翌7年の区制施行で、町屋地区は荒川区に所管された。
第二次大戦の空襲で焦土と化したが、戦後の復興はめざましく、住宅や工場などが再建され、商店街も活性化した。しかし、昭和40年代から、産業構造の変化や環境問題などに伴い、大工場の移転や廃業が相次ぎ、その跡地が公園やマンション・住宅などに整備され、新しい街作りの拠点となってきた。