高津区は川崎市のほぼ中央部に位置し、多摩川を挟んで東京都世田谷区と接している。東急田園都市線の高津駅から都心の渋谷までは13分、二子玉川へはわずか3分と恵まれた立地で、溝の口は1駅と近く徒歩圏でもでもある。近年、高津と溝の口の両駅を中心とした高津エリアはマンションや宅地開発も盛んで、溝の口駅前の再開発も進み、人気の高い田園都市線沿線でもあり、住みたい街として注目されている。
現在、高津という名称は区名と駅名に残されているが、明治22年(1889)に溝口、久本、坂戸など周辺8か村が合併して高津村が誕生したのがルーツで、由来は大阪の高津宮付近と景観が似ているとか、川の上流にある渡し場を意味する“高津”から採ったなど諸説がある。昭和3年(1928)に村から高津町となり、同12年(1937)に川崎市に編入された。第二次大戦後は地域の市街化が進んだことや、昭和47年(1972)に川崎市が政令都市に移行したことなどで、町域が分割され合併前の村名が町名として復活された。そのため高津町は消滅したが、元の町域は高津地区と呼ばれている。 高津地区や周辺の丘陵地には原始時代から人が暮らしていたらしく、縄文・弥生時代の貝塚や遺跡が発見されている。奈良時代以降の律令制下では武蔵国の橘樹郡に属し、近隣に郡衙(役所)が置かれていた。平安時代は荘園として管理され、室町時代には北条氏の所領となったが、それ以前から府中街道(現・国道409号)が通じており、東国と畿内を結ぶ幹線路の足柄道も開かれていた。この2つの道が交差する付近に、民家が集まり溝口の集落が形成されたという。江戸時代に入ると足柄道が矢倉沢往還(現・国道246号)として整備され、寛文9年(1669)に溝口が宿駅に定められ、東海道の脇街道となった。江戸中期には江戸の人々が、大山阿夫利神社へ参拝する行楽を兼ねた大山詣でが盛んになり、矢倉沢往還は大山街道とも呼ばれ、溝口は多摩川二子渡しの宿場町で栄えた。また、厚木方面からの荷駄が溝口に運ばれ、ここで積み替え江戸へ送る中継地として商業も発展した。 高津地区に鉄道が敷設されたのは昭和2年(1927)で、南武鉄道(現・JR南武線)の川崎〜登戸間が開通し武蔵溝ノ口駅が開業した。同年に玉川電気鉄道溝ノ口線(現・東急田園都市線)も開通、溝の口駅が南武鉄道の駅と隣接して設置され、大山街道沿いに高津駅と二子駅(現・二子新地駅)も開業した。当時の溝ノ口駅は溝口宿から離れた場所に設置され、商業の中心街は高津駅に近かった。だが、南武鉄道沿線に工場や研究所が進出し、武蔵溝ノ口と溝の口は通勤乗降客が増え、次第に両駅前に商店が集まるようになったのだ。
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